
「生き物に対して申し訳ない」動物への想いから 教員の道へ葛藤のなかで模索する、自然と人間の”共存”のあり方
片岡せりなさん
東京都立農産高等学校 教諭
※所属、肩書はインタビュー当時(2020 年10月)のものです。

大好きなイルカが「人間のせいで死んでしまっている」
小学生のときに海洋ゴミ問題を知り、環境保護に貢献する決意をした西原・環境奨学金OGの片岡せりなさん。
学生時代からボランティアで環境問題に取り組み、大学卒業後は “環境教育に携わりたい” との想いから教員の道へ。
「動物と人間が共存するにはどうすればいいのか?」
「環境保護と経済活動を両立させるにはどうすればいいのか?」
「自然を守りながら人間が生活していくためには何が必要なのか?」
教員として、産業や経済活動の一環としての農業を教えながら、
自然のあるべき姿や人間の生活のあり方を模索する、片岡さんにお話を伺いました。
お年玉は募金へ イルカが大好きでした
今年で教員になって9年目になります。現在は東京都立農産高等学校の全日制で農業を教えています。
このほかの授業では、庭園に使う石や木材などの材料や、街路樹等の樹木に関することなどをおしえたりします。ちなみにうちの学校にはビオトープがあり、生徒が手入れをしながら水生植物の観察や研究をしています。最近は珍しい藻が見つかったと話題になっていましたね。発見されたのは「ヒメフラスコモ」なのではないかと言われていて、そうだとすると日本での発芽は23年ぶりということになります。

―――ビオトープって、あまり聞いたことがないのですが、何ですか?
ビオトープ(英:biotope)というのは、ドイツで生まれた概念で、ギリシア語のbio (生命)+ topos(場所)を組み合わせた造語です。様々な生き物が安定して生活でき、共生できる空間を意味します。人工的に生態系を作る場合もありますし、自然にできる場合もあります。
ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルが1886年に公開した著書『一般形態論』において、生物が存在するための前提条件としての生息域の概念を提唱し、さらに水・土・地理などの環境要素や生物の相互作用により形成される生物群系について解説しました。これをベルリン動物学博物館の動物学者フリードリヒ ・ダールが上で述べたように言葉を組み合わせて1908年に「ビオトープ」と名付け、その後一般への認知が広がったと言われています。その規模はさまざまで “アマゾンの雨林” から 両手に収まるような“小さな鉢”まで、いろいろなものがあります。
―――西原・環境奨学金のサマーキャンプでも以前「卓上ビオトープ」をつくりましたね。あのとき片岡さんが解説してくれたのを思い出しました。サマーキャンプでは早朝から森へ行って野鳥観察に出かけたり、千ケ滝まで行かれたりしていたのも印象的でした。
そうですね、ものごころついた頃から動物が大好きで。小学校低学年の頃には、お年玉を動物愛護団体へ募金したこともあるくらい。特にイルカが好きでした。

また、わたしが7歳のとき、おばあちゃんの家で飼っていた子猫が死んでしまったことがあって。死因は、田んぼのあぜ道にまかれていた除草剤のついた草を食べてしまったことでした。
どうすればこんなことにはならなかったんだろう?動物や自然と、人間とがいっしょに生きていくにはどうすればいいんだろう?幼心に疑問を抱きました。ひょっとするとこの時の悔しさや喪失感が、環境問題に携わりたいという想いを最初にわたしに芽生えさせていたのかもしれません。
生物の命に「無関心な人」に、何をしたらいいのか?
それから小学4年生の時に、海洋学者の林正道さん(自称は海洋 “楽”者)の出張授業を受けて、イルカなど海に生息する生き物が、人間が捨てたビニールゴミを食べて死んでしまっているということを初めて知りました。残酷な映像を目の当たりにし、とてもショックを受け、イルカに対して申し訳ないという気持ちになりました。そしてどうにかこの現状を変えたいという熱意が芽生えました。環境問題にとりくむことを心に決めたのはこのときです。
ちなみに今でもこの想いはそのままで。「環境」はわたしのライフワーク。これからも探求していきたいとおもっています。
―――環境問題に関わる仕事は世の中にたくさんある中で、どうして環境 “教育” の分野を選ばれたのでしょうか?それも ”農業高校の先生” を?
最初は飼育員になろうとおもっていたんです。だから飼育の基礎を学ぶために「愛玩動物専攻」のある高校に進学しました。
ところが高校に入って “本当にこのまま飼育員になって自分は満足なのだろうか” と悩み始めました。飼育員になって、動物園や水族館で、動物の魅力を伝えたり、絶滅の危機だと伝えることができても、それを知る人っておそらくすでに「動物が好きな人」ですよね。そういう人は誰かからの働きかけがなくても、すでに動物や自然環境を大切にしながら生活をしている可能性が高い。
一方で動物や自然環境を守るために本当にアプローチする必要があるのは、動物の命を守ることや自然環境を保護することに関して「無関心な人」であるはず。それなのに、飼育員になったら、そういった「無関心な人」たちとの接点は見つけづらくなるのではないか、と考えました。
また、中学生の時の職場体験などで、動物園や水族館が担う役割を学んだことがあって。一般的に動物園の役割って、“お客さんに動物を見せること“だというイメージを持たれがちですが、実はそういった役割は全体の3割くらいしか占めていなくて、ほとんどが動物を守るための生態の研究にあてられている施設なのだということは知っていました。でも、私には “個々の動物を研究すること” が、環境保全につながるというイメージをもつことができなくて。それで、途中で飼育員になる道ではなく、動物の生息域を保全する道に変えました。
きっと私は「人間のせいで動物が死んでいる」ということに対する罪悪感から逃れたかったのだと思います。動物や自然に「良いこと」をしていないと落ち着かない、みたいな感じ。逆に言うと、「楽しく」とか、「好き」みたいにポジティブなワードに抵抗があったかもしれないです。動物が好きだから、動物の飼育をする。イルカが好きだからイルカとずっと一緒に過ごす。それは漠然とした夢としては素敵だったのですが、いざ現実的に進路選択をするとなると、躊躇してしまいました。毎日楽しくイルカと泳いでいても、自分が動物や自然に対して負っている贖罪は果たせないのではないか、と。
人生の岐路で、自然と人間のあり方を問いたい
そんな時に頭に浮かんだのが、“高校の先生”でした。
わたし自身にとって、高校時代は周囲の物事に対する考え方や価値観の土台が形成されるすごく大切な時期でしたし、特にわたしが通った高校は、6〜7割の生徒が就職するようなところだったので、卒業後どのような仕事につくかという、人生における大きな決断を下すタイミングでもありました。
だから、そんな大切な時期に、人に何かを教え、対話する存在に なることで、人の人生に何かしら影響を与えることができるのではないか。また、高校の中でも農業高校の先生になることで、特に自然環境の分野で知識を教授しながら、生徒とともに自然環境と人との共存のあるべき姿についても考えることができるかもしれない。そう考えて農業高校の先生になりました。
―――実際に先生として教えるようになって、人と深く関わりながら、環境について考えることはできていますか?
深く関わるという点では、期待は適っていると思います。ちょうど今わたしは進路指導を担当していて。生徒の話をききながら、これからどんなことしたいのかを一緒に考えたりしています。
こうした相談に乗っている時に「教育ってわたしの性(しょう)にあっているな」と感じますね。
なんというか、人と話しながら、その人の心の深い部分までわかろうとすることができること自体が幸せだなと思います。
また、授業以外でのいわゆる生活指導、生徒の身だしなみや言葉使いに関する指導もします。このほか副担任としてのHR運営、部活 動指導、文化祭や体育祭などの運営、支援が必要な生徒への対応などもしています。
生徒は先生。自らの無知さを教えてくれる存在。
ただ、進路相談にしても生活指導にしても、いわば “人としての” 生きる道や振る舞いを教えることなので、何が、なぜ正解なのかがわかりづらい。説明しづらい。難しいなと感じることが多いですね。
それでも指導そのものは “人と人との関わり” であり、コミュニケーションがベースになっているので、言葉や接し方を変えることで、相手が前よりも話してくれるようになったり、今まで話してくれなかったことを相談してくれるようになったり。一生懸命向き合った生徒が、だんだん気持ちの部分で頼ってくれるようになったりします。そういった小さな変化をありがたく思う日々です。
また、生徒との関わりを通じて、むしろわたしの方がハッパをかけられているように感じることもあります。わたしが思っている以上に、生徒はいつも好奇心にあふれていて。だから生徒からの質問、疑問に応えられるように、自分自身ももっと勉強しなくてはというプレッシャーを常に感じます。
―――環境について考える、という点では?
農業高校では、基本的には「産業としての」農業を教えることが期待されているので、環境問題について考えることはコアのカリキュラムではないんです。だから余裕のあるときに、どうにか授業内容と関連するテーマを見つけ出して、授業の内容と紐づけながら行なっている状況です。
例えば以前赴任していた学校では、雑草で紙を作ったり、草花で布を染めたり、竹でお箸をつくったり、といった体験型の授業を通じて、わたしたち人間と自然がいかに密接に関わり合ってきたのかを理解してもらうための工夫を施していました。
―――生徒の反応はいかがでしたか?
なかなか難しいですね。環境に関する授業は「自然に関心がある」という前提の上で成り立つものだとおもっているのですが、(自然は守らないといけない、だからどうやったら守れるか?という問いが出てくる)生徒のなかには、そもそも自然の価値がわからない子もいるわけです。それは単純に、これまで自然と触れ合った “楽しい思い出” が無いからなのではないかなと想像しています。
例えば、生徒の中には、ネグレクトに近い家庭環境で育った子や、親と週末に山や海などに一緒に出かけるような余裕のない家庭の子もいて。そういった家庭環境の影響で、精神的にもネガティヴな子もいて。
“自然はきっと 、新しい世界をきりひらいてくれるはず”
そのような子供達に、何十年という長期的な視点での地球の変化を想像してもらいながら、環境問題について考えてもらうのは難しくて「余裕のある人しかできないことだ」「偽善者のやることだ」といった反応が返ってきてしまったこともありました。
でも、わたしはそういった子たちにこそ、自然と触れ合う楽しさを知って欲しいんです。いまの環境に失望して、暗い気持ちになっているとしても、生き物に触れることで、自然界という新しい世界がひらかれる。そうすれば、きっと前向きな気持ちになれるはず。自然にはそういう力、価値があるはずだと信じています。
だから自然体験活動として知られるネイチャーゲームを授業に採り入れるなど、自然や動物を好きになってもらうための試行錯誤を続けています。
(サマーキャンプでのハイキング中、鳥に寄っていく片岡さん:一番右)
「心に残った」授業は、体得して次世代へ
―――ネイチャーゲームといえば、片岡さんはネイチャーゲームのリーダーの資格を取られていましたよね。
はい、2015年の冬に。
ネイチャーゲームは、社団法人日本ネイチャーゲーム協会が「シェアリングネイチャー」の考え方にもとづいておこなっている自然体験活動です。「シェアリングネイチャー」というのは、1979年に米国のナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏の著書 “Sharing Nature with Children”において発表された概念です[注1]。
裸足で芝生を歩いたり、木の音に耳を澄ませたり…直接的な自然体験を通して自分を自然の一部ととらえ、生命や自然から得られる前向きな感情を共有することによって、自らの行動を内側から変化させ、心豊かな生活を送ることを目指すことを指します。
この考え方に基づいてつくられた「ネイチャーゲーム」は、自然がみせてくれるさまざまな表情を楽しみながら、自然の不思議や仕組みを学び、自然と一体になるというある種の”カリキュラム”で、予備知識は一切不要。子供も大人も楽しめます。


