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【インタビュー前編】

「一瞬で、透明な水に」

感動から決意 異国・異分野の膜ろ過へ

中央大学研究開発機構 機構助教 

丁青(テイセイ)さん

※所属、肩書はインタビュー当時(2022年5月)のものです。

中国江蘇省出身の丁青さん。国際水環境プロジェクトを機に2012年来日し、中央大学で修士号を取得。2018年9月には日本水環境学会の博士研究奨励賞(オルガノ賞)最優秀賞を受賞しました(テーマは「凝集-MF膜ろ過プロセスにおける不可逆的膜ファウリングの制御理論の確立」)

 

これまで一貫して膜ろ過分野の研究に従事してきた丁さんですが、来日前は造船会社に勤務。どのようなきっかけで異国・日本へ渡り、凝集膜ろ過の研究者になったのか。研究者になるまで・なった後の2本立てで今回はインタビューをお送りします。

わたしは田舎育ちで、あまり情報のない環境で育ったので。大学に進学するまでは夢とかもなく「とりあえず」という気持ちでしたね。「とりあえず」勉強。これが高校3年までのわたし。ただ勉強をしていただけだから、全然何もすごくないけど、江蘇省では50万人中の400番目だったんですよ。

中国では「この大学には、この省(の成績順上から)の何名まで」という人数の枠があるんです。わたしの場合は上海交通大学に行ける成績を取れたんですが、わざわざ大学(上海交通大学)の先生がうちの家まで来てくれんたんです、大学の紹介をしに。もちろん、上海交通大学の名前は知っていたので、もう単純に「名前を知っていたから」です。清華大学・北京大学など、北部の大学にも憧れはあったけど。南部の方が親戚も近くにいるし、なんとなく安心感があったから上海交通大学に。

船舶海洋学科を選んだのは、二年目から成績によって専攻が分けられるからです。船舶は成績の上から半分、土木は下から半分。わたしは50人中上から20人ちょっとの成績だったんです。このわずかな差で船舶になってしまったんです。本当は建築を専攻したかったんですけどねぇ…。

当時、中国では、南極に調査に行くプロジェクトを行っていました。そのプロジェクトで南極に行く船のメンテナンスを、わたしの大学が担当していたので隠れて船に乗り込んで、南極に行こうとしたこともありました。バレて追い出されたけど(笑)。

幸い、そんなに大ごとにはならなかったです。当たり前の話ですが、「船に乗った人」と「降りた人」の人数が毎日管理されてて、数が合わないから見回りにきたワケです。わたしたちも卓球とかして遊んでたりして、まったく緊張感がなかったですね。ただ、船の人はすごく優しくして、「調べものはちゃんとできましたか?」なんていってくれて。「拘束」とかそういう感じじゃなかったです。ただ、学校ではめちゃくちゃ叱られましたけど(笑)・・・。

 

卒業後は、造船会社に就職しました。当時奨学金をもらって会社から、イベントに招待されたことがあって。参加したらその場で、「今サインしたら入社していいよ」と言われたんですよ。でサインして。会社の主要事業は船の修理でしたが、わたしはゼロから造船するところに配属された。

転機は「先が見えてしまった」とき

入社するときは “こういう船を設計したい” とイキイキ、ワクワクした希望もありました。でも実際に入社してみると、当たり前かもしれませんが、社内では分業化が進んでいて。組織における仕事なので仕方がないのかもしれないんですけど、本当にルーティンワークの日々。毎日同じ景色を見ながら、決められた枠のなかで仕事をする。学生の頃にはできなかったことなので、最初は新鮮でしたが、だんだん繰り返しの作業の多さに違和感を抱き始めました。人付き合いも多く、毎日同じ人たちと過ごしながら「20年後、自分はこうなるんだな」と将来をイメージできてしまったんです。

完全な年功序列ではないけれど、年齢も一つのパラメータで。将来が見えてしまって。友人に文部科学省と中央大学が主催した「国際水環境理工学人材育成プログラム」に誘われたのは、ちょうどその時期で。

 

日本に来たのは2012年。あの日は大雪で、膝まで雪が降っていたのを覚えています。寮に布団はあったけど、カバーがなくて。近くにいた人と一緒に布団カバーを探しましたねぇ。

空港に着いた時は「こんにちは」もわからなかったですが、そこから三ヶ月猛勉強。1日中、マンツーマンで教えてもらいました。先生が3人くらい交代交代で教えてくれて。大きな教室にたった一人。朝にN4(日本語能力試験が認定するレベル。N1、N2、N3、N4、N5の5つのレベルがある)、昼にN3、夜にはN1・・・。

日本語学校を出たあと、中央大学でも「まずは日本語を勉強しなさい」と言われ、当時の指導教官が毎日添削してくれました。当時在籍した(修士課程の)研究室は河川・水文研究室と呼ばれるところで、水に関することならなんでも研究の対象。洪水・水災害の対策や水質・放射性同位体などの研究問題、気象現象や降雨流出現象、水理現象などの水循環のメカニズムの理論的研究を中心に、観測・実験・数理解析を用いて総合的に研究するところにいました。

 

わたしの場合は「日本」「中央大学」という新しい環境・文化に “接触する” チャンスがそもそもあまり無かったんです。博士課程が始まっても基本的にコミュニケーションは直属の指導教員とだけ。他の学生や先生とは話す機会が少ない。唯一、日本国内の学会で知り合いができるくらい。学会に参加しても、他の日本人と違い、共通のバックグラウンドがない。どこの出身だとか、幼い頃に見聞きしたものが全く異なるので、研究以外の雑談ができない。飲み会でも仲良くなりづらい。

え?よく喋る印象がある?、わたしが?(笑)。それは一方通行でわたしが話してるだけ(笑)。相手を理解するための言葉の一つ一つが、わたしにとっては専門用語。やはり知識がまだまだ足りない。

「日本人なら常識だよ」といった台詞は今でも言われます。研究をする上でも、そのベースになる一定の知識が前提とされている気はして。それは、ただ「日本語を学ぶ」だけでは得られない何か、といったものなのかなぁ。

「黒い水が、一瞬で透明に」感動し、凝集膜ろ過の道へ

 

修士課程の一年生のときに山村寛 先生の研究室に入った。今でも忘れられない実験があって。それは、膜ろ過の実験で、濁った水が一瞬で綺麗な水になるもの。単純な実験だけど、透明になった瞬間、ものすごく感動した。そこから膜について調べはじめたし、膜をテーマに研究することを決めたんです。修士課程の二年からは、凝集膜ろ過処理についての研究に取り掛かりました。

インタビュー後編はこちら

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